日本人と鶏肉

古今東西を問わず鶏は平和な生活の象徴

 鶏は、古今東西を問わず、平和な生活の象徴としてとらえてきました。イタリアには、ローマ人は平和な日々は鶏鳴とともに目覚め、戦時にはラッパの吹奏と共に目覚めるというローマ時代の話が伝わっています。
 中国の老子は、隣の国とは鶏や犬の鳴き声が聞こえるほどの距離ながら、お互いに往来することもない鶏犬のいる農村を、平和な理想社会として描いています。それを受けて、5世紀の詩人、陶淵明は、『田園の居に帰る』という詩で、入り口から家屋にいたる奥まった路地で犬が吠え、桑の木の頂きで鶏が鳴いているが、幸せな脳槽の風景であると謳っています。
 日本でも、鶏は昔臼辺鳥という名前で呼ばれていたと、室町時代に編纂された書物に載っているそうですけれども、ちょうど、唐臼でおばあさんが籾をついているといろいろなものが飛びますが、その周りを鶏が走り回る光景が、本当に平穏なの農村の姿だということが書いてあります。
 洋の東西に問わず、鶏は平和な生活の象徴として非常に心慰めてくれる動物として存在してきたように思います。

5000年前にインドで家畜化され世界中に広がる

 鶏はキジ科の動物で、今でもインドやベトナムあたりでは野生の状態で生息しています。ジャングルフォールという名前で呼ばれているのが鶏の先祖です。今から5000年前、紀元前3000年にインドで初めて家畜化されたと言われています。4000年前のインダス文明では、鶏は既に時告げ鳥として大事に飼われていました。その頃の人々は闘鶏にも興味があり、闘鶏によってものを占ったという記録が残っています。
 鳥はインドから東と西の両方に移っていきます。東では、紀元前1700年前後には中国で既に鶏が到来していたと言われています。それから1000年ほどたって、紀元前700年の頃には、もう一般的に鶏が飼われるようになり、紀元前300年頃、孟子の時代、「周礼」という本には、6蓄という大事な家畜のうちの1つが鶏だと載っています。
 西では、まず最初にエジプトに運ばれました。ツタンカーメン王の墓から鶏の絵を描いた埋蔵品が出土しており、それは王の権力が強かったので早い時期に海路に運ばれたのだろうと言われています。アーリア人がインドに侵入したのが紀元前1600年頃ですが、陸路の場合はこのアーリア人侵入の逆コースを通って、鶏が西側に伝わっていったと言われています。
 紀元前1000年頃には、アフガニスタンやペルシャ(現在のイラン)のあたりにも鶏が移っています。紀元前800年頃には、小アジアからギリシャのコリントのあたりまで鶏が運ばれており、そこではペルシャの鳥として受け入れられ、それがイギリスへ渡ったのが紀元前200年前後、そこからアメリカ新大陸に移っていったのが紀元後の1500年、1709年にはもう既にアマゾンで鶏を見たと旅行記に書いているほど世界中に広がって行きました。

日本へは紀元前300年頃、弥生時代の初めに九州に到来

 鶏は紀元前300年頃、弥生時代の初めの頃に日本に伝わってきました。
 朝鮮半島を経由したものと、海路を直接来たものがあり、日本への到来地は、九州だろうというのが定説になっています。
 弥生の中期あるいは後期の、長崎県の壱岐にある原の辻遺跡からは鶏の化石が出土しており、福岡県の大川の酒見貝塚からも出土したと伝えられていたことから、弥生時代には九州に鶏が着ていたことになります。
 その後、古墳の時代になり、鶏の埴輪が高貴な人のお墓から出土していることから、鶏が広い範囲に広がっていった様子がはっきりとうかがえます。
 『古事記』では「常世の長鳴き鳥」と記されているように、鶏が日本に来た初めの頃は、おそらく時を告げる聖鳥として大事にされていました。さらに古墳時代になると、たくさんの渡来人が日本に入り、定着し生活を始め、特に農業に従事するような人たちの間では、時告げもさることことながら、その変に遊ばせておいて卵も採れるし、卵を産まなくなったら締めて食べる楽しみもあるということで、幾分、宗教的な崇拝の気持ちが薄れていったと言われています。

記紀の時代の枕詞「庭っ鳥」が「ニワトリ」に

 大和朝廷の誕生から奈良時代にかけて、日本人には鶏の鳴き声は「カケ」と聞こえていたようです。それゆえ「カケ」という言葉が、すなわち鶏の古名でした。その「カケ」を文章に表す時に、『古事記』も『日本書紀』も、「庭っ鳥カケ」というように枕詞をつけます。
 それから「家っ鳥カケ」というのもそのころつけられていました。
 ちょうど「沖っ島カモ」「野っ鳥キジ」と同様、非常に音韻のいいかたちで枕詞がつけられていたわけです。私は鶏というのは庭にいる鳥だからと初めはずっと思っていましたが、少し調べてみると、「庭っ鳥」という枕詞だけが残り、やがて「カケ」が消えていって、「ニワトリ」となっていったわけです。
 『古事記』と『日本書紀』は、ともに「庭っ鳥」、「家っ鳥」という枕詞を混ぜながら使っていましたが『万葉集』が編纂されたころには、「庭っ鳥」だけが残り、「家っ鳥」という言葉は消えています。『万葉集』ができたのは8世紀のことですが、9世紀になると催馬楽という、歌と踊りを楽しむ古代芸能が盛んになります。その催馬楽の中に、「庭っ鳥は、カケロと鳴きぬなり」という歌があるのですね。だからもうその頃には、どうも「ニワトリ」という言葉が出来上がっていたように思われます。
 奈良時代や平安時代に鶏は「カケ」とか「カケロ」と鳴きぬなり、とは言ってもとてもそうは聞こえません。現代の日本人の表現する鶏鳴き声はコケコッコーですが、国によっても違います。
 英語であれば、「コックドゥードゥルドゥー」と聞こえ、ドイツだったら日本語に表現すると「キッキリキ―」、フランスであれば「コッコリコー」、韓国だったら「コーコーコキョー」と聞こえるらしいです。だから、鶏の鳴き声は時代や国によってさまざまな聞こえ方がするというのも、大変不思議な感じがします。

肉食禁止令以降も日本人は鶏肉を食べ続けました

 古墳時代から、農耕に従事する人達は日常的に卵や鶏肉を食べていました。そのような状況の中で675年、天武天皇の4年目の時に有名な殺生禁断、肉食禁止の詔が発令され、その中に鶏も入れられました。だから、鶏は殺して食べたりしたらいけないことになりましたが、日本中広く、そして鶏をさばくのは非常に簡単ですから、方々で食べていたと言われています。鶏を食べる時には、これはキジやウサギと言って言い逃れをしながら食べました。また病気や具合が悪い時に卵を食べると急に元気になることを知っていたので、引き続き卵を食べるけれども、カラは土を掘って隠す人が、奈良時代にはたくさんいたということです。
 奈良時代の基本史料といわれる『続日本記』には、キジやカモと同様、鶏は肉を食べるものだと記載されています。延喜式には、神様に供えるものとして米と酒と卵がいいとあります。卵を備えるときっと神官とその一族が食べたのでしょう。また、公家など宮廷人が肉食をした場合、宮中の政に3日間の参加を禁じたお触れの最後のただし書きで「ただし、鶏肉は除外されている」と書かれているので、肉食禁止令以降、かなり長い歴史の中で鶏を食べる習慣は、ずっと続いてきたようでした。
 平安時代になると、数十羽単位で鶏を飼育して、卵を販売する人が現れます。さらに、平安時代の末期になると、京都の七条修理太夫信考という人が、白い鶏を1000羽飼っていて、それを4500羽に増やしたところ、稲田に入って大変な問題になったという、畜産公害のはしりのようなものが発生しています。「大日本農功伝」という史料には、養鶏の歴史は意外に古く、既にもう平安時代にはそういう人達がいたと書かれています。
 しかしいつの時代でも、食用になるのは卵を産まなくなった鶏や不要になった鶏、すなわち廃鶏の肉だけでしたので、本当に美味しい鶏肉が出てくるのは、明治以降になってしまいます。  

室町時代から卵を食べる人が急増、養鶏が全国に普及

 さらに鎌倉時代になりますと、武士の副業に養鶏が勧められたようですし、その後室町時代になると、卵はいきみいのではないという噂があっという間に日本中に広がりました。それを契機に日本では鶏卵を食べる人が急増し、鶏を飼う人たちも胸を張って卵の生産に取り組むようになりました。この頃から、日本人の卵好きがはっきりと出てきたわけです。
 安土桃山の時代になると、一時いは南蛮文化の影響で鶏の肉を食べることが盛んに行われましたが、やがてキリシタンの弾圧とともに肉食も廃れてきます。しかし、豊臣秀吉の天下の頃、エスパニアの船サン・フェリペ号が土佐沖で難波し漂着した時、秀吉は豚200頭とともに鶏を2000羽納め、船乗りたちを慰労しました。そのようなことができるくらい、鶏は結構方々でたくさん、手に入れようと思えば入れられる時代になっていました。
 江戸時代になると、滋養のあるものを食べないことには体がよくならないという考えが広まって、養鶏は更に盛んになり、卵の行商人が江戸の街を売り歩く姿も見られるようになりました。鶏肉の料理法は。あつものや汁物の中に鶏の肉を入れると非常においしい、あるいは干し鶏にして食べるのもまたいいなどと、江戸の中頃に出た『料理物語』という書物に書かれています。江戸の末期になると鶏飯が流行ります。おそらく今も全国で「鶏弁当」がそれの歴史を伝えているのだろうと思います。
 三代将軍家光の時代、水戸黄門光圀は、小規模でもいいから鶏を飼いましょうと言って、茨城で養鶏を勧めました。更に八代将軍吉宗は、養鶏業の育成に乗り出しています。その頃に出た思想家で農学者の佐藤信淵が著した『培養秘録』という本には鶏の買い方が詳しく書かれています。また江戸時代前期の農学者、宮崎安貞は『農業全書』全11巻の10巻目の巻頭に「鶏は人家になくては敵わぬものなり」と書いています。
 19世紀の初頭、非常にたくさんの卵が町の中に出回っている様子を、日本で捕虜生活を送っていたロシアの軍人ゴロウニンは「日本人は卵には目がなく、硬くゆでて、ちょうどヨーロッパの人たちが果物を食べるようにたくさん食べている」と『日本幽囚記』に書いたりしています。

関東では軍鶏鍋が人気を呼び文学作品にも登場

 江戸時代の初めには、海外からいろいろな鳥が入ってきたという記録があります。交易船によって、軍鶏、矮鶏、蜀鶏、ミノルカなど5,6種入ってきており、その中から関西、近畿を中心に西日本に広がっていったのが九斤、いわゆるコーチンです。片や巻頭では軍鶏が広がっていきました。その当時から九斤は5,6kgの大きさでした。軍鶏も3~5kgほどの大きさがあったということで、日本の地鶏などに比べるとはるかに違う鶏だったということです。そして、卵も大きく垂涎の的になってました。日本の鶏も、年間150~160個くらいは卵が採れるという時代になっていました。
 関東の人たちは軍鶏鍋が好きで、軍鶏を戦わせては、負けた鶏を打ち首にして軍鶏鍋を楽しむというのが、池波正太郎の『鬼平犯科帳』にところどころ載っている話です。しかし同じ軍鶏でも、若軍鶏が一番高級な料理だと言われていました。
 文学作品の中にも『仮名手本忠臣蔵』の中に「これから軍鶏を締めてさせて鍋焼きしよう」というのがあったり、あるいは世話物のセリフの中に「軍鶏で一杯」というような言葉も散見できます。軍鶏鍋は昭和30年代くらいまで、関東では非常に上等な食べ物と言われてきました。今でも東京には軍鶏の料理が非常に美味しいというお店が沢山あります。
 江戸時代は肉食の禁止が非常に緩くなって、好きな人が結構軍鶏を食べるようになりました。
 坂本竜馬は、1867年12月10日に暗殺されましたが、その直前京都の宿で、お付きの小姓に「腹が減った、群鶏を買ってこい」と言って使いに出したけれども、その間に襲われて中岡慎太郎とともに亡くなったので、群鶏を食べることが出来なかった。そのようなことが一般的な話として出てきます。

品質改良が進み養鶏地帯は都市部から周辺に拡大

 いよいよ明治時代に入りますと、外国から多くの鶏が入ってきます。当初はイギリスから姿形が非常に面白いということで沢山輸入したようですが、アメリカから輸入した鶏のほうが生産性が高い。結局ブロイラーとしては姿形よりも能力を優先ということで、アメリカのほうが育種技術が進んでいることを知るところとなりました。
 廃藩置県で禄を失った武士たちが、何か仕事をしなければいけないというので、明治に入り愛知県では養鶏を奨励する講習会が行われています。もともと鶏を500羽もかっている武士がいたところですから、多くの人が熱心に鶏を飼うようになりました。海部元首相のご先祖に、海部流砲術の始祖、海部定右エ門正親がおられるのですが、それから難題か後の海部壮平、正秀の両氏も明治12年頃、養鶏を始めました。
 地鶏とコーチンの一種である九斤を掛けあわせていって、明治30年ごろには名古屋コーチンをつくりました。その名古屋コーチンは発育がいいし、卵を孵化する能力も高いというので、一時は国産の実用鶏の第1号、鶏すなわち名古屋コーチンと言われるようになりました。
 地鶏がつくられるようになって、もともとの養鶏地帯は非常に活気が出てくる一方、東京を中心とする近県や大阪とその周辺でも養鶏が盛んになり、養鶏業者も多くなりました。
 こうした都市部の消費に焦点を当てて大々的に養鶏をしていたのおは、いわゆる実業家、それから旧士族、餌を流通させていた餌取り扱い商社、家畜商の人たちで、やがて明治の末期頃になると、少し規模の小さい養鶏業者が、中小の都市に広がっていったということです。  

 

不要となった雄ひなを抜雄仕立てとして肉用若鶏に飼育

 そのような動きの中、大正2年に鶏卵増産10ヵ年計画が出ました。ちょうど技術開発の時期と重なり、にわかに養鶏は盛んになります。昭和6年になると鶏肉と鶏卵が重要輸出産物に指定される程になりました。大正7年には日本人が消費する卵の3分の1が中国の卵、上海から輸入した卵でした。養鶏技術の進歩によって、国内需要をまかなえるようになり、さらに余力を持って輸出まで出来るようになったということは、画期的な出来事だっただろうと思います。
 その頃になると雌雄鑑別技術も実用化が進み、不要となった雄ひなを肉用に利用することが注目されはじめ、抜雄仕立てとして肉用若鶏に飼育することが採卵養鶏の副業として行われるようになりました。若鶏は5,6ヶ月齢、もう少し早めの3ヶ月がひな鶏という形で、ようやく、お金持ちが料理店へ行なって購入な鶏肉を食べられるという状況が生まれました。とはいえやかり、鶏料理というのは供給で値段も高いものですから、旦那さんは鶏料理を食べて、番頭さんは牛肉料理を食べるというのが通り相場のようでした。
 こうして若鶏が生産されるようになると、昭和の初めに新宿の中村屋がカレーライスの中に若鶏を入れて、非常に高い値段で売り出しました。その頃の鶏肉の規格は、特等、1等が若鶏、2等、3等が老廃鶏ですが、3等が牛肉のロースと同じ値段だったそうです。豚は牛の値段よりももう少し安かったというので、今では考えられないような鶏肉高級品時代がしばらく続いていきます。そして鶏肉は「ハレ」のごちそうで、お正月前には普段の10倍もの量が売れていたそうです。
 ところがそういう豊かな時代を過ぎた後、今度は戦争の時代になって鶏は餌が不足し始め、農家にいる鶏はかなりいろいろなものを食べて生きていましたが、昭和12年に5100万羽いたものが、20年には1700万羽と、3分の1に減ったことになります。
 ここまでの歴史の中で、鶏は近代になってひな鶏や若鶏が登場しますが、食用としては日本ではほとんどの時代、廃鳥を食べていたわけです。廃鳥でも結構いい値段で売れるということがわかっていても、肉を取るための養鶏は近代になるまでほとんど出てきておりません。ところが戦後、ブロイラーが日本に導入され養鶏業の業態もすっかり代わり、今日に至っています。

財団法人 日本食肉消費総合センター
「鶏肉の実力~健康な生活を支える鶏肉の栄養と安全安心~」
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