守口の紹介

数千年前までさかのぼると?

数千年前までは、大阪湾でしたが、その後隆起作用や上流からの土砂の堆積などにより陸地化が進み、やがて紀元前2~3世紀に大陸から農耕文化が伝わる頃には、守口市周辺地域は低湿地帯や島々が形成され、農耕生活が始められたと言われています。

江戸時代に入ってからは?

守口は元和2年(1616年)東海道の宿場となり、元禄年間に守口町と公称されました。
近代になり、明治43年(1910年)に京阪電車が開通し、昭和6年(1931年)には国道1号線が完成、大阪市電も運転を開始して守口の発展は一層促進されました。

昭和には?

昭和21年(1946年)11月1日には、守口町と三郷町が合併し、市制が施行され、全国206番目、大阪府では11番目の市として誕生しました。
当時の市域は、ほとんど田んぼで占められていましたが、大都市大阪市に隣接し交通の便が良い地理的条件から、昭和32年(1957)に庭窪町と合併し、現在の守口市となりました。
市の勢力は急速に進化し続け、人口は昭和46年(1971年)にピークの18万8千人を数えました。
昭和52年(1977年)には大阪市営地下鉄谷町線が守口市まで開通し、昭和58年(1983年)に大日まで延伸されました。また、京阪電鉄高架化も昭和57年(1982年)3月に完成、京阪守口駅前開発も昭和60年(1985年)10月に竣工しました。

守口市はどこ?

大阪平野のほぼ中央部、淀川の左岸にあり、南は大阪市(旭区)、西は大阪市(鶴見区)、東は門真市、北は寝屋川市に接した平坦地です。
面積12.73k㎡、総人口146,463人、男性71,449人、女性75,014人、世帯数70,037世帯の市です。

守口市はどこ


丸徳本社がある寺方本通はどこ?

守口市の南東側に位置しており、国道163号線を挟んでいます。
(守口市のホームページによると) 平成24年6月1日の時点で守口市の世帯数は70,037、総人口は146,463人の内、寺方本通の世帯数は592、総人口は1,184人です。

寺方本通はどこ

守口市の史跡めぐり

守口市には、歴史・史跡・文化財たくさんあります。守口市のホームページに記載されている「もりぐちぶらり歩きマップ」を参考に、京阪守口市駅からスタートして守口市役所周辺→西三荘→土居→守口市駅のルートで史跡めぐりをしてみました。その中でいくつか紹介します。

京阪守口市駅

【京阪守口市駅】
明治43年(1910年)に開業し、当時は守口駅として地上駅として開業しました。昭和46年に守口市駅に改称され、昭和57年(1982年)に上下線ともに高架化となりました。


文禄堤

【文禄堤】
現在の枚方市から大阪市長柄まで全長27km続くとされる堤防で文禄3年(1594年)に豊臣秀吉が毛利輝元・小早川隆景・吉川広家に淀川の改修工事を命じて慶長元年(1596年)に建設した淀川左岸の堤防道です。堤防の上は大阪と京都を結ぶ最短路である京街道(または大坂街道)であり、後に東海道と呼ばれるようになりました。度重なる淀川の改修等で堤の多くは姿を消しており、ここ守口にのみその面影を偲ぶことができる貴重な文化財です。


三洋ミュージアム

【三洋ミュージアム】
戦後間もない時代に「小さくても心のこもった仕事をしたい」という思いを胸に井植歳男氏が創業した三洋電機。以来、半世紀余りの間、様々な家電製品を作り出してきた。その設立50周年を記念して守口市に開設されました。井植氏の足跡や、様々な実物製品や資料を展示しており、先人達の創造の軌跡や日本の家庭電化の変遷、産業都市・守口にある大企業の歴史を学ぶことが出来ます。


守口市役所

【守口市役所】
守口市は、昭和21年(1946)に守口町と三郷町が合併をして、大阪府で21番目、全国で206番目の都市として誕生しました。
この建物は、昭和25年(1950)に建てられ、当時では珍しい鉄筋コンクリートの庁舎でした。


一里塚跡

【一里塚跡】
慶長9年(1604年)に徳川秀忠が5街道を整備した時に、街道の両側一里(約4km)して、設けられ遠方からも見やすくするため榎、松などを植えたと言われています。この一里塚は、守口宿の入り口でもあり出口でもあった。そしてこれは旅人の守口への目印で同様な塚が向かい側にも存在したと言われております。今現在この場所は、記念碑が立てられています。


盛泉寺

【盛泉寺】
守口の宿には本願寺の末寺が2つあり、その一つが「盛泉寺」です。
教如上人により慶長11年(1606年)に開基されたと伝えられています。開基当時の本堂は元和元年(慶長20年〔1606年〕の大坂夏の陣の兵火によって消失し、今の本堂は天保6年(1835年)の再建になるものです。


難宗寺

【難宗寺】
もう一つの本願寺の末寺は、守口小学校の誕生期に仮校舎として使われていた「難宗寺」です。
枚方市出口に光善寺を創建した蓮如上人が文明9年(1477年)に創立した守口御坊が始まりと伝えられています。慶長16年(1611年)には本願寺掛所に昇格し、西御坊と呼ばれるようになりました。その後、元和元年(1615年)の兵火による焼失や、度々の風水害なので朽廃したため、延宝7年(1679年)建立の岩清水八幡宮護国寺仮堂の古材を再利用し、文化7年(1810年)に再建されたのが現在の本堂です。
そして昭和50年(1975年)に大阪府の天然記念物に指定されました。


大正天皇御下車跡

【大正天皇御下車跡】
明治43年(1910年)10月に、淀川で行われた工兵特別大演習を視察のために、大正天皇が皇太子の時に京阪電車で守口まで来た時に下車したとされる場所です。当時は高架ではなく、守口市駅と門真市駅の間に世紀の駅が無く、演習場所に一番近い所に、皇太子が降りるための仮停留所を設けた場所の跡です。


パナソニックミュージアム 松下幸之助記念館

【パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館】
(門真市域)現パナソニックグループの創業者の故・松下幸之助氏の足跡や、元松下電器が生産した各種電化製品を実物・映像・写真パネルを用いて、展示されています。また、建物は昭和8年に現在地付近に建設された本社社屋を復元したものです。


天乃神社

【天乃神社】
祭神は素戔鳴尊・誉田別尊・菅原道真公であり、江戸時代には天神社・天神宮と呼ばれていました。
寛文10年(1670年)に当地方を領有していた竹内門主親王によって、祭神である菅原道真公の木像を授けられ、社殿を改築したといわれています。
現在の本殿に安置されている旧本殿は、柿葺の一間社春日造で向拝に蟇股2箇を並べた類例のない形式を持つなど江戸時代初期を下らない特徴をもつ貴重な建物です。 


唯称寺

【唯称寺】
東本願寺大谷派のお寺で、市内の真宗寺院では、最も早く木仏の本尊を安置した寺の一つといわれています。
当初は、藁葺の屋根で外観が民家と変わらない集会所的な建物でしたが恵明上人の時代(19世紀中頃)に上位の真宗寺院内陣正面の構えを取り入れ、真宗の本堂としての形に整えられました。
この本堂は、18世紀後半頃の新しい建築になるものとはいえ、農民に密着した村道場の古い形態を残した貴重な建物です。


高瀬神社

【高瀬神社】
延喜式内社として津嶋部神社と並んで守口市内屈指の古社。天正年間(1573~1592)に織田・三好の兵火で社殿は焼かれたもののその後再建され、江戸時代中期頃に建てられたのが現在の社殿。江戸時代には、神殿その他全てが備わった大社であったことから八幡宮とも呼ばれていました。


エナジー社社屋の大壁画

【パナソニック株式会社 エナジー社社屋の大壁画】
松下町にあるパナソニック株式会社 エナジー社の社屋には、壁をキャンパスに見立てた大壁画があります。
これは向かい側にある寺方小学校の児童が描いた恐竜の原画を合成したもので、題名は「わたしたちの恐竜ランド」と名づけられています。



産須那神社

【産須那神社】
創建は明らかではありませんが、元和元年(1615年)の大坂夏の陣の時に全村が焼失し、当社も兵火にかかりましたが、神霊を土の中に埋めて避難させたと伝えられています。
寛永元年(1624年)に社殿を再建し、その後の寛延2年(1749年)に五条家より菅原道真の木像を授かり祭神としたといわれます。


喜左衛門記念碑

【喜左衛門記念碑】
旧寺方荘をはじめとする12ヵ村一帯は、排水の便が悪く村民は常に悪水に悩まされていました。
村民は、たびたびこの地に樋を設けることを幕府に願い出ましたが、認められなかったので、南寺方村の庄屋喜左衛門は寛永11年(1634年)についに意を決し、適地に樋を築き水害を一掃しました。
樋はそのまま置かれましたが、喜左衛門は幕府を無視したとして翌年3月15日に処刑されました。そして、 明治15年(1882年)12ヵ村の人たちは喜左衛門を慕ってここに碑を建てました。
【伝和泉式部供養塔】
喜左衛門記念碑の右にある石造宝篋印塔は、和泉式部の供養塔と伝えられていますが、台座に康永3年(1344年)願主妙弥道延の銘が彫られた南北朝時代のものです。


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